徳島県立池田高等学校 wikipedia|無料辞書
◆沿革
・
1948年 - 徳島県立池田高等学校と改称、三名分校を設置
・
1949年 -
男女共学化。また
高校三原則にはかり徳島県立三好農業高等学校と統合、同校から箸蔵分校を移管し佐馬地と西祖谷に分校を設置。総合池田高等学校と改称
・
1951年 - 西祖谷分校東祖谷教室と西祖谷分校をそれぞれ祖谷分校・祖谷分校西祖谷教室と改称
◆部活動
・ 文化部 - 書道、美術など
・ 体育部 - 硬式野球、ハンドボール、レスリングなど
◇野球部
かつて
甲子園で数々のドラマを生み出した
蔦文也元監督率いる池田高校野球部。これまで春夏通算で優勝3回、準優勝2回の輝かしい成績を残している。全部員11人だけで戦い抜き準優勝を果たした「さわやかイレブン」や、「やまびこ打線」と呼ばれたその豪快な攻撃野球で一躍有名になった。甲子園で鳴り響いた校歌の歌詞が、未だに耳から離れない高校野球ファンも多い。近年では甲子園出場も遠ざかっているが、2006年の春の県大会では準優勝、2007年度秋季高校野球大会では、同じく県大会で準優勝を果たし(優勝は徳島商業)、四国大会出場を決めるなど復活の兆しを見せている。2008年の秋季県大会ではシードされた。
さわやかイレブン
1974年春の甲子園(46回大会)に出場した池田高校は、メンバーが11人という、どうにかゲームが出来る人数であった。怪我人さえ殆ど出せない状況のなかで、全メンバーが一丸となってプレーする姿は、人々の胸に感動を与えた。そしてそのまま
準優勝を果たし、全国から注目を浴びた。
やまびこ打線
蔦は「芯を外れていても腕力が強ければ飛距離が伸びる」という金属製
バットの特性を生かすために、ひたすら部員の上半身を鍛え上げた。こうして、緻密なプレーはせずにとにかく打ちまくるという強打の「やまびこ打線」を生み出し、
1982年夏の甲子園(64回大会)ではチーム6戦85安打という当時の大会新記録を見事に打ち立てた。ラストバッターの山口博史は2回戦、3回戦と2試合連続でホームランを放ち、「恐怖の9番打者」と恐れられ、切れ目のない打線の象徴となった。更に準々決勝の
早稲田実業戦では、のちにプロでも活躍するエース
荒木大輔と
石井丈裕の両投手から14点を奪い圧勝、決勝戦では、
「緻密なプレー」の権化ともいえる
広島商相手に初回から猛打で圧倒し、12-2で粉砕した。この徹底されたパワー野球は後に「池田野球」と呼ばれ、多くの野球指導者・選手に強い影響を与えた。そして高校野球界に新たな流れをつくった。
やまびこ打線のその後
金属バットは打力を全面に押し出した方が有利と逸早く気付き徹底して実践した蔦の先見の明はその後の高校野球に大きな影響を与えた。帝京高校の前田監督や、智弁和歌山高校の高嶋監督などが以後、この蔦池田野球に大きな影響を受けたというのは有名である。甲子園の準々決勝で対戦し、スクイズをされた
東北(
宮城県)の投手
佐々木主浩は「池田高校がスクイズをするとは思わなかった」と試合後のインタビューで話していた。この「山びこ打線」は、結果的に現在主流となっている複数投手制の遠因となっている。
KKコンビとの対決
池田は
1983年夏の甲子園(65回大会)の準決勝で、当時まだ1年生で、この年ノーマークだった
桑田真澄・
清原和博の「
KKコンビ」を擁する
PL学園と顔を合わせた。相手ピッチャー・桑田の大活躍で想い通りのバッティングが出来ず、またエース・
水野雄仁も不調で(この年3回戦、対広島商戦で頭部に死球を受けた)、0-7の完封負けを喫した。無敵と思われていた池田高校が、1年生投手に抑えられ、敗れたことは、当時日本中に大きな衝撃を与えた。この試合では山びこ打線のお株を奪うかのように、7番以降の下位打者3人(うち1人は8番桑田)にそれぞれ一発を浴びているが、4番の清原は4打席4三振であった。
なお池田を降したPL学園は決勝で横浜商を破り、その大会の
優勝校となった。ここにおいて高校球界の盟主は池田からPL学園に完全に移ることとなる。
甲子園での成績