熊谷組への就職を発表し、プロ拒絶の姿勢を明確にしていたが、
西武ライオンズの
根本陸夫管理部長(当時)が
ドラフト6位で強行指名。その後、説得に応じ入団(当時のマスコミには、6位指名ながら、1歳上で1位指名の
伊東勤より高額の契約金・年俸と推定されていた)。前年、大学進学が決まっていた
秋山幸二のドラフト外での強行指名、
伊東勤を
埼玉県立所沢高等学校定時制に進学させるなどと同じく、俗に「
根本マジック」、「
球界の寝業師」などと称される出来事のひとつである。以後、根本を「オヤジ」と呼んで慕っていた。西武黄金時代の中心投手となり、縦に落ちる独特のカーブは相手打者をきりきり舞いさせた。
1994年秋の契約更改時にそれまで老朽化していた練習設備の改善を訴え続けていたものの、球団からは色よい答えが返ってこないと言うのを建前にして
FA宣言。根本が球団社長、
王貞治が監督に就任した福岡ダイエーホークスに移籍した。西武の黄金時代を支えた
秋山幸二と再びチームメイトになり、チームの再建を託された。