1944年12月、
遊撃戦の指導の任を与えられ、
横山静雄中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と命令を受けた
[p57 小野田寛郎の終わらない戦い]。また、派遣前には司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後もアメリカと戦い続けるとの計画のもとでフィリピンに派遣された
[p56 小野田寛郎の終わらない戦い]。
フィリピンの
ルバング島に着任。着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍は小野田を相手にせず、米軍上陸後は簡単に撃破されて山間部に逃げ込んだ。小野田は友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共に
ゲリラ戦を展開した。ルバング島は、
フィリピンの首都
マニラの位置する
マニラ湾の出入り口にあり、この付近ではマニラを母港とする米軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。
1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、部下(
赤津勇一一等兵:1949年9月逃亡1950年6月投降、
島田庄一伍長:1954年5月7日戦死、
小塚金七上等兵:1972年10月19日戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の指揮下に戻った時の為に密林に篭り、情報収集や
諜報活動を続ける決意をする。日本では
1945年9月に
戦死公報を出されたが、1949年に赤津が投降したことで、小野田ら3人の
残留日本兵が存在することが判明する。
持久戦法をたててアメリカ軍に挑み続け、島内にあった
アメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。使用した武器は
九九式短小銃、
三八式歩兵銃、
軍刀などであり、そのほか
放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を改造して使用していた。これらの戦闘において、アメリカ軍レーダー基地司令官を狙撃し、重傷を負わせるなど、多くの『
戦果』を上げている。地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は密林の中、単独で戦闘を続行している。30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、在フィリピン米軍の兵士を30人以上殺傷した。