多くの相撲部屋から勧誘された中から中学1年で三保ヶ関部屋に入門し、
墨田区立両国中学校へ転校。入門時のエピソードとして、小学6年の時すでに
三保ヶ関親方が目をつけ「もう少し身長が伸びれば連れに来る。よく寝れば身長は伸びるよ」とアドバイス。このことを忠実に守って暇さえあれば寝ていたため両親が悲鳴を上げ、予定を早めて入門したという(三保ヶ関夫人が手編みの
靴下を贈ってくれたのが入門の決め手になったともいう)。
1967年1月場所に師匠の長男である後の
大関増位山とともに
初土俵。
四股名は故郷壮瞥にある
洞爺湖にちなんで師匠の三保ヶ関がつけた。湖を「うみ」と読ませたのは
水上勉の小説『湖の琴』(うみのこと)からの着想という。改名の多い角界において珍しく、初土俵から引退まで一度も四股名を変えたことの無い力士であった(
番付で北乃湖と誤記されたことがあった)。現役引退後も一代年寄「北の湖」で通している。
柔道を始めとし、
野球、
水泳そして
スキーで鍛えたスポーツ万能の体を生かしてスピード出世。当時の最年少昇進記録を次々に樹立。中学生(15歳9ヶ月)で
幕下昇進するなど「北の怪童」の異名をとった。ただし途中、
三段目で全敗した事もある。横綱で幕下以下の全敗経験者は現在まで北の湖一人である。また、
十両以下での優勝(下位優勝)経験が皆無で横綱に昇進した。なお、下位優勝経験なしの横綱は北の湖の他に、
玉錦(第32代横綱)、
双葉山(第35代横綱)、
栃錦(第44代横綱)、
曙(第64代横綱)がいるが、いずれも一時代を築いた大横綱である。
当時、
中学校在学中に相撲部屋に入門し、学校に通いながら大相撲の土俵に上がる力士は北の湖のほかにも多くいたが、社会通念上問題があるとされた。北の湖が大活躍したため、特に話題になったとも言われる。
1971年11月場所中に監督省庁の
文部省(当時)から日本相撲協会に正式に通達が出されたため、協会はすぐに既に入門している中学生力士たちを帰郷させ、さらに入門条件に「中学卒業(
義務教育終了)後でなければ大相撲に入門できない」と言う条項を加えた。そして場所後に中学生の力士採用禁止を正式決定している。北の湖以降も、後の大関
琴風らが中学在学中から
土俵に上がっている
[[外部リンク] 「大相撲 記録の玉手箱」内「今日は何の日?-12月4日」を参照。]。