1625年にマウリッツのあとを継いだもう一人の叔父
フレデリック・ヘンドリックは、オランダ総督及びオラニエ公即位後の
1626年、テュレンヌに陸軍大尉職を与えた。若い士官は、この時期の包囲戦で職務を果たした。
1629年、
スヘルトーヘンボス(
フランス語:ボワ=ル=デュック)包囲戦勝利で見せた、テュレンヌの手腕と勇気は、当代の一流司令官の一人であったフレデリック・ヘンドリックから特別な賞賛を勝ち取った。
1630年、テュレンヌは
オランダをあとにし、フランス軍に入った。軍内の昇進の見込みだけでなく、フランス王家に対してブイヨン公家の忠誠を見せて欲しいという母の願いが動機だった。
リシュリュー枢機卿はすぐにテュレンヌを歩兵連隊の大佐にした。彼はオラニエ公と短期間距離をおいていた(オランダとフランスは当時同盟関係にあった)。彼がフランス軍に属してから最初の実戦は、
1634年に
フォルス公が指揮した
ロレーヌのラ・モト=アン=バシニー包囲戦であった。テュレンヌは突撃で見せた戦果で、陸軍少将(
mar?chal de camp)の地位に即時に昇進した。
1635年、テュレンヌは
ヴァレット枢機卿指揮下において、ロレーヌと
ライン川で戦った。フランス軍とその同盟軍は、8月8日に
マインツが
神聖ローマ帝国軍に包囲されると集結したが、フランス軍は食糧の欠乏から
メスへ撤退しなければならなかった。退却時にテュレンヌは、有名な神聖ローマ帝国軍の将軍
マティアス・ガラスと剣を交えており、その勇気と手腕から大いに名を上げた。再編成された軍は
1636年に再度野戦をおこない、サヴェルヌを攻略した。この猛攻でテュレンヌは重傷を負った。
1637年、彼はランドルシー占領(7月26日)を含むフランドル遠征に参加した。1638年後半、
ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマル(1608年-1639年)の元で戦い、テュレンヌは
ブライザハを急襲を指揮し12月17日に降伏させた(ブライザハはすぐにライン川上流の強固な要塞となった)。テュレンヌは今や、フランスの若い軍幹部の中で将来を有望視される一人という評判をとった。