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「グロバー・クリーブランド」||就活-master.com (05/23update)

グロバー・クリーブランド wikipedia|無料辞書

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スティーヴン・グロバー・クリーブランド(Stephen Grover Cleveland, 1837年3月18日 - 1908年6月24日)は、第22代および24代アメリカ合衆国大統領(任期:1885年 - 1889年1893年 - 1897年)。歴代大統領で唯一、「連続ではない2期」を務めた大統領である。また、歴代アメリカ大統領の中で唯一、ホワイトハウスで結婚式を行った大統領としても有名である。(なお日本語では「グロバー」と表記されることが多いが、英語の発音は「グラヴァー」である。)

◆ 青年期と初期の政治活動

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1837年、クリーブランドはニュージャージー州コールドウェルにおいて、長老派教会の牧師の9人の子供のうちの1人として生まれた。クリーブランドは数年後、家族とともにニューヨーク州北部に移り住み、そこで成長した。クリーブランドは10代半ばにして父親を失い、その後はニューヨーク州バッファローに住む富裕で有力な伯父のもとへと移った。
クリーブランドはバッファロー市内の法律事務所で法律を学び、1859年にニューヨーク州の司法試験に合格した。その後クリーブランドはエリー郡の地方検事補、保安官となった。その一方で、民主党に所属する弁護士として地方で活動し、担当した職務へのひたむきな集中により次第に名声を高めていった。
また、ニューヨークの自由の女神像の除幕式に参加した大統領でもある。

◆ 大統領第1期

◇ 選挙活動
1881年、クリーブランドはバッファロー市長に選出され、市政改革に業績をあげた。1882年にはニューヨーク州知事共和党の革新派からの支持も受けて選出され、行政改革の手腕を認められた。クリーブランドは地方から中央へととんとん拍子に頭角を現した。そして1884年、クリーブランドは民主党全国大会において大統領候補として指名を受け、同年の大統領選挙に出馬した。
1884年の大統領選挙において、クリーブランドは共和党のジェイムズ・ブレイン候補と争った。ブレイン陣営はクリーブランドが1863年に徴兵逃れ、1874年に不倫相手に隠し子を生ませた疑惑と主張した。クリーブランドはいずれの疑惑も事実と認めたことで、逆に有権者から誠実と受け止められた。一方、ブレインにも財界と癒着した疑獄事件が発生し、選挙戦は互いに中傷しあう泥仕合の様相を呈していたが、最終的に共和党の一部がクリーブランド支持に回ったことにより僅差でクリーブランドが勝利を収め、翌1885年3月、クリーブランドは大統領に就任した。

◇ 政治方針
共和党政治が続いた後、国民の期待をになって選出された大統領は、不屈の勤勉さ、信頼感、炎のようなエネルギー、正直さの塊であった。民主党員ではあったが、強い政府、内政への大統領の指導的役割に関しては、従来の共和党の考え方と近かった。政府の家父長的保護を好まず、国民は政府に経済性、清廉さ、正義を求めるべきであり、経済的対立への介入や社会事業を求めるべきではないと考えていた。このことは、事業に有利な関税、退役軍人への年金、鉄道への土地の優遇などに反対したことにも現われた。閣僚には、大多数を占める農民や労働者や少数グループからの代表はなく、法律、政治、ビジネス界から実力ある人物を抜擢した。
しかしながら、細部にわたるまで自分で決定しなければ気がすまない性格として、ブレーンとなる側近、スタッフをおかず、メディアとの接触も避け、孤高を貫いた。強い大統領論者だけに、法案への拒否権の回数も著しく多く、第1期目だけで414回にも及んだ(初代からの歴代大統領の拒否権数合計は204回)。議会工作は苦手で、努力もしなかった。

◇ 政治内容
クリーブランドは大統領特権を有効に行使し、重要問題に国民の関心を高めて立法化に努め、議会に対してイニシアティブをとるという「大統領らしい大統領」となった。官庁の市民サービスの改善、主要政府機関の改革、南北戦争従軍者への軍人恩給削減などを実施した。しかし、旱魃に苦しむテキサスに穀物種子を支給するための特別支出金を認めず、インディアンから不法に借り受けていた牧草地の契約を無効にして、放牧業者、インディアン双方の生活条件を苦しめることとなり、非難された。議会との関係も上手くいかず、銀貨の自由鋳造廃止を提案したが失敗に終わった。
当時の最大の関心事は関税問題であった。歴史的に見ると、アメリカは保護関税が効果を上げ、先進国のイギリスを凌ぐ産業国へと発展していた。共和党の優勢が自由貿易を抑えることに貢献していた。
クリーブランドは、関税を下げる政策を掲げて大統領選挙に勝利した。関税の引き下げには、民主党内部にも少数ではあるが、強硬な反対があった。1887年末に出された議会教書は、関税修正態度を盛り上げるために一石を投じたものであった。内容は、一般関税の引き下げと、特に原料品に対する課税の撤廃を強調したものであった。輸入関税によって国民が多額の支払いを製造業者に支払っているとし、積極的に保護関税修正意見を喚起させた。
1888年の大統領選挙ではイギリス大使が「クリーブランドの当選を期待する」という旨を出し、これが共和党の対立候補ベンジャミン・ハリソンによる「民主党の言う関税引き下げは、英国製品を合衆国に流通させるものだ」という批判に根拠を与えてしまう。クリーブランドはこのあおりで落選した。

◇ 内閣