アンドリュー・ジャクソン wikipedia|無料辞書
史上唯一、議会から不信任決議をされた大統領であり、またアメリカ大統領史上初の暗殺の標的になった(未遂)。
◆ 生い立ち
ジャクソンは1767年にカロライナのワクスハウエリアの未開拓森林地域で生まれ育った。13歳の時に彼は急使として大陸会議軍に加わった。彼の肉親はアメリカ独立戦争時に全て死亡し、彼自身は英軍の
捕虜となった。戦後ジャクソンは
1800年に若き
弁護士として
テネシー州に移り住んだ。彼は名門の生まれではなかったため、自分の才覚で経歴を創り上げなければならなかった。すぐに彼は開拓時代の無秩序の中で頭角を現し、州市民軍の
大佐となり軍歴を積み重ねることとなった。
◆ 大統領職
ジャクソンの時代までに白人男子普通選挙制が確立したこともあり、彼の時代は「
ジャクソニアン・デモクラシー」とも称される。また、官吏の多くを入れ替えて自らの支持者を官吏とする
猟官制(スポイルズ・システム)を導入した。当時においてはこの
政策が
汚職構造の打破と考えられ、これは慣例化した。
ジャクソンは自分自身の政治家としてのアイデンティティを庶民(common man)の味方におき、イメージを形成させた。彼はホワイトハウスの前にチーズを置き民衆に分け与え、ホワイトハウスへの見学ツアーを企画、その大統領就任の祝賀パーティーでは「民衆」のあまりの行動に収拾がつかなくなる一幕もあった。
大きな
政府を望まないジャクソンは、かつて政府が設けた
第二合衆国銀行を、
州ごとの独自
財政を奪うとともに庶民の利益に沿わないとして、これを敵視し、自らの政治生命をかけて廃止に動く(彼の有名なセリフ “the bank is trying to kill me, but I will kill it”)。ジャクソンは連邦議会認めた第二合衆国銀行の特許更新に対して
拒否権を発動。それまで拒否権は、あきらかに違憲の可能性がある時に発動するのが慣例であり、ジャクソンの行動は革新的なものだった。なぜなら最高裁判所でも、連邦議会でも第二合衆国銀行は合憲とされていたからである。議会は反発し、名だたる上院議員が演説をおこなった。しかし、結局拒否権を覆すのに必要な三分の二の票を反ジャクソン派は確保できず、第二連邦銀行は連邦の保証を失い、窮地に追いやられ、その後のジャクソンのさまざまな政策によって破産に追い込まれる。
このことでもわかるようにジャクソンは連邦に対して州の権利を重要視する、南部出身の「州権主義者」だった。彼の時代連邦政府は均衡財政を維持し、負債をださなかった。しかし、サウスカロライナにおいて連邦法を
州の権限によって無効にし、州は合衆国から自由に離脱できるとする運動が起こったとき(
無効化の危機)、ジャクソンはこの動きを強く牽制。結果サウスカロライナの離反はさけられ、この時の彼の行動は後の
エイブラハム・リンカーンの南部諸州の連邦脱退の時の行動に強く影響を与えた。
ジャクソンは立身出世のきっかけとなった
米英戦争において
インディアンの掃討で活躍していたように、彼の目指す民主主義は白人のためのものであった。ジャクソンが定めた
インディアン強制移住法は、インディアンから強制的に土地を収奪するもので、この法律によってインディアンの多くは大陸西部へと追いやられた。このインディアン強制移住法は
違憲であるという判決を下した
連邦最高裁判所長官
ジョン・マーシャルに対し、ジャクソンは「マーシャルがこの判決を下したのだ。だからマーシャルにこの判決を実行させてみようではないか」と嘯き、平然と強制移住法を施行した。
◆ 内閣